マキノコーヒーについて

~すべては珈琲一杯の豊かさのために~

焙煎人 牧野 秀樹

珈琲との出逢い

生まれ育ったのは、兵庫県北部但馬地方は出石町。

見渡す限りの深緑の山々に囲まれ、冬になれば雪景色。

四季彩が美しく、古き城下町の名残りがある町並み。

料理家系の次男・牧野は、和食料理人であった父より、幼き頃から言い聞かされてたことがあった。

 

「お前は向いていないから、料理の道はやめておけ」

「好きな仕事で、家族を幸せにできる男になれ」

 

 元々、絵画や書物、音楽や映画などの芸術を嗜んでおり、そんな牧野の青春時代を決定付けたのは、15歳のとき、ひとり暗がりの映画館で観た大島渚監督「御法度」だった。

嵐のように観る者に畳み掛ける圧倒的な芸術表現に、いたく感銘を受け、「自分も映画の世界で表現したい!」

と、高校卒業後、大阪の専門学校で、映画や芸術の勉強に励んだのち、京都・太秦の照明会社で4年間ほど勤めた。


朝から晩と、とめどなく続く撮影現場のなか、気付けば缶コーヒーを飲んでいる日常であったが、ある日、缶コーヒーを買い続けることに、どこか違和感を覚え、「自分で淹れてみようかな」「本物の珈琲って、どんなモノだろう?」と、京都河原町にある、象のシルエットを形どったロゴマークの喫茶店で「インドネシア・トラジャ」の甘くて苦い不思議な一杯に出逢い、コーヒーに興味を持ち始める。

 

このトラジャとの出逢いによって文字通り味を占めてしまった牧野は早速、抽出器具一式を購入して、様々な国や産地で栽培された豆、焙煎度合の違い、銘店の味創り。それぞれの違いや個性を楽しみながら、抽出の勉強をしていった。

コーヒーカップの奥底に潜む、珈琲の深淵を覗き見るように…。

そんな格好付けた言葉では無く、ただただ、自分が好きな味を知りたい。

その欲求のために。

珈琲の美味しさを知ってほしい

人それぞれの好みのコーヒーを

たくさんの珈琲屋を巡り、さまざまな珈琲豆を嗜み、自分が美味しいと思うコーヒーが明確に分かりはじめた頃から、親しき間柄である恋人や友人、家族にコーヒーを淹れて飲んでもらうようになった。


銀座と焙煎

どうしてもコーヒーと関わる仕事をしたいと、迷いもなく焙煎の道に進む。古くから焙煎方法の伝統を守っている珈琲屋があり、コーヒーに夢中になった頃から憧れがあった珈琲屋の門を叩き、勤め始める事になる。焙煎の勉強は勤めながら独学でも行い、自分自身のこだわりも研究しながら修行に励む。次第に凝り性の性分の牧野は、「いま、自分が触れているコーヒー豆を自ら生み出したい」、そう思いはじめる。

久米島産というブランド豆への挑戦

久米島への移住

2014年、「コーヒーを栽培から携わりたい」そう思っていたころ、母親の故郷、久米島で、祖父が営んでいたシークワーサー畑を利用しコーヒー畑に開拓するできる。その話を聞き、牧野は迷いなく久米島に移住します。しかし、始めてみると沖縄でコーヒーの木を育てる難しさを痛感しました。沖縄は台風が多く、コーヒーの木は雨風に弱いため、何十本と駄目にしてしまった。それでも、「栽培」にこだわり続けた牧野は、古くから久米島にいる祖母や、周りの人たちから知識を得て、台風はもちろん、紫外線にも耐えうる力強いコーヒーの木に育てあげる。


初収穫から精製

2018年11月初旬。完熟になったコーヒーチェリーの初収穫。大切にひと粒ひと粒手で摘んでいきました。コーヒーの実からコーヒー豆を取り出す精製方法は乾式と湿式方法がありますが、古くからブラジルやエチオピアで取り入れられているコーヒー豆そのものの風味が育成され、豆本来の味が生かされる乾式で精製。乾燥中に雨や湿度に触れすぎると、腐敗や過度に発酵してしまうので、本当に細心の注意を払いひと月ほど乾燥させました。そのあとの作業も丁寧に行い、生豆はしっかり乾式特有の芳醇な香りと、少し黄色味がかった状態に仕上がりました。

いつか久米島産珈琲をたくさんの人に飲んでもらえるように

念願であった久米島産の自家焙煎珈琲豆。ひとつの作物を自分たちの手で育てること。こんなシンプルな事でも、いかに時間が掛かり苦労があったか。生産国の人たちが人生を賭して産み出すものが、日本にあることは当たり前ではない。身をもってひと粒の重みを知り得ました。

 

記念すべき初収穫はごく僅かですが、情熱と種子と豊かな自然があれば、もっとたくさん赤い実を実らせることが出来る。そう信じて、新たに農園を開拓しています。6世紀にエチオピアから始まったコーヒー伝播史の先端に、久米島の名を刻めることを夢見て 。